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2014/06/21

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと⑨国連集団安保参加に集団的自衛権は必要ない

ここのところ、ほぼ毎日の割合で何かを書くネタを提供してくれる安倍政権だが、今度は国連安全保障措置における集団的自衛権の行使容認だとか。結局、この政権は何がしたくて集団的自衛権にこれほどまでに固執するのだろう。



これまでの焦点は国連PKOへの"積極的"参加だった筈




これまでのシリーズでも述べてきたが、国連憲章七章に基づく集団安全保障措置には、経済制裁等の非軍事的制裁と武力行使等の軍事的制裁がある。



このどれにも属さないのが、PKO(国連平和維持活動)で、これは強制力のある措置ではなく、あくまで対象国の同意を得て実施される。治安維持活動である。



つまり、国連PKOは法的には憲章7章下の活動ではなく「武力行使」でもない。故に「6.5章に基づく活動などと言われているが、憲章起草時にPKOの想定がなかったのだから仕方がない。



国連憲章はこれまで殆ど改正されたことがなく、安保理の構成や常設機関などは変わってきたが、安全保障措置に関わる事項は改正されていない。



この国連PKOに参加するに当たって、我が国は小泉政権時代にPKO協力法を定め、PKO参加5原則を設けて活動に参加してきた。このPKO参加五原則のうちの1つが、はじめて海外に派遣する自衛隊のROE(部隊行動基準=交戦規定)となった。



その五原則とは、次のとおり。


1. 紛争当事者の間で停戦合意が成立していること。
2. 当該平和維持隊が活動する地域の属する国を含む紛争当事者が当該平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
3. 当該平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
4. 上記の基本方針のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は、撤収することが出来ること。
5. 武器の使用は、要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること。

この五番目の原則が、PKOにおけるROEに相当する。ただしこれは、日本独自のものではなく、国連のUN-SROE(標準ROE)も専守防衛を基本としているため、日本のROEは国連SROEと合致している。



これまで我が国は、このUN-SROEを遵守しつつ国連PKO活動に参加してきた。ただ、激化する紛争情勢と、PKO及び国連要員の死傷者が増加する中で、国連SROEは事態のレベルに応じてカスタム化されるようになった。



つまり、事態によっては、日本のPKO原則そのままの運用では参加できないものが増えてきた。これがいわゆる、「複合型の国連平和維持活動」といわれるものだ。



複合型とは、従来の「紛争後の典型的任務」のほかに「安定化」「平和の定着」「長期的な復興と開発」等の任務が含まれるもので、場合によっては「正式な和平合意のない状態で、国家当局からの要請を受け、正当な政府への移行を支援するために展開されるもの」もある。



「国連平和維持活動のミッション全体の軍事要素に適用される交戦規則(ROE)と、警察要素に適用される武力行使指令(DUF)では、各種の状況において行使できる武力のレベル、各レベルでの武力の用い方のほか、司令官から取り付けるべき承認があれば、これについても明記される。」(国際連合平和維持活動局フィールド支援局『国連平和維持活動 原則と指針 2008年』より)





政府自民党は当初、この「複合的な国連平和維持活動」への参加をより“積極的”に行うため、自衛隊の部隊行動基準の見直し、ひいては自衛隊法、PKO協力法の改正を目指していた。



政府の当初の主張は、これら法改正を行うための原則として、集団的自衛権の容認が必要であるということだったが、これまで本シリーズで再三述べてきたように、部隊行動基準の見直しのために集団的自衛権を認める必要はない。



民間法制懇をはじめ、多くの識者が同様のことを指摘したためか、政府自民党はこの主張を閣議決定に盛り込むことは取りやめたらしい。



国連PKOではない安全保障措置への参加は何を意味するか




そこにきて、今度は部隊行動基準の見直しに留まらない軍事的強制措置としての武力行使への参加のために、集団的自衛権が必要だと主張を切り替えてきた。



なぜ与党間協議がこじれている今になって、と思うかもしれないが、実際はこれが本丸だったのだろうと考えれば、辻褄が合う。



つまり、憲章6.5章に基づく活動といわれる複合型国連PKOへの対応は部隊行動基準関連法制の改正で対応できるが、更に憲章7章に基づく軍事的強制措置に“積極的に”参加するには、原則を見直すしかない=集団的自衛権を認めるしかない、という論法だ。



ここで、国連の皮を被った多国籍軍による武力行使に参加したい(させたい)日米双方の思惑が合致する。いい例が、これまでシリーズでも幾度も例に挙げてきた、アフガニスタンにおける国際(「国連」ではない)治安支援部隊ISAFの存在だ。



ISAFの元は、個別的及び集団的自衛権に基づきアフガン攻撃を開始した米英軍とそれに協力する主にNATO諸国から構成される多国籍有志国連合軍だ。



この有志国連合軍による大規模戦闘が終了し、タリバン政権が転覆されてから、国際会議が開かれ、アフガンの暫定政府の要請で設置が認められたのがISAFなのだ。



ISAFは、この国際会議での合意(ボン合意)を経て、国連安保理決議により“追認”され、正式にその発足と武力行使の権限を安保理に認められた。厳密には、安保理が「設置」した部隊ではないのである。



ISAFはあくまで有志国連合軍なので、安保理はISAFに対して国連PKOのようなSROEを適用することはできない。かわりにISAFは米英主導からNATO主導へと切り替わったことで、NATOのROEが適用されるようになる。



当初集団的自衛権の行使を宣言したNATOによるISAFは発足したが、実は米英軍におる「不朽の自由作戦(OEF)」も同時並行して展開していた。



つまり、アフガンでは国連に「武力行使」を認められたISAFの「活動」と国連に主権の行使として認められたOEFという軍事作戦が並行して進められているのである(今も)。



政府自民党が主張する「国連の武力行使」への参加とはつまり、こうした国連が“追認”した多国籍軍による武力行使も含まれるのである。



つまり、国連憲章第51条の規定をなぞれば、米英主導のOEFが国家固有の個別的及び集団的自衛権の行使で、安保理が「限定的に」自衛権行使を認めるなかで「決定した行動」が、ISAFによる武力行使、という整理になる。


第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、
安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。



政府自民党が「国連の武力行使」に参加するために集団的自衛権が必要と主張する背景には、憲章第51条をなぞるように実施された安保理による行動の事例があるからなのである。



つまり、今後もこうした事例が起きた時に、自衛隊が“積極的に”その行動に関わり、軍事行動の中心となる米軍他各国軍の連合部隊を支援或いは共同作戦を展開するためである。



これを認めたら、成立過程に疑義のあるISAFのような事例を模範として、集団的自衛権に基づく際限のない武力行使に日本が参加できるようになる。



これは現実的な可能性だ。



端的にいえば、政府自民党はISAFのような部隊に参加したいのである。米国の軍事行動に協力したくてしょうがないのだ。





集団安全保障措置への参加は可能




当初安倍首相は、国連の集団安全保障措置への参加に「憲法上の制約はない」と主張した政府内閣法制懇の報告に対し、「これまでの政府の憲法解釈と論理的に整合せず、 (報告書の)考え方は採用できない」と明言していた。(20日 時事)



これまでのシリーズでも紹介したとおり、元民主党の小沢代表もかつて、「政権交代した暁にはISAFに参加する」と明言していた。ただし、現在の自民党政権とは参加の目的も理由も異なる。

小沢元代表は、ISAFが国連安保理決議を経た活動であっても、「銃剣をもって人を治めることはできない」と、民生支援に限定することを明言した。この場合の民生支援とは、民軍連携で行われているISAFの地方復興部隊(PRT)への支援だった。つまり、戦闘行為には直接参加しない限定的な形の参加の意で、ISAFへの参加を表明した。



つまり小沢元代表は、憲法の範囲内で日本ができることに活動を限定した上で、それでも国連決議によりオーソライズされた活動であれば、日本の自衛隊もISAFのPRTに参加できるとしたのである。



当時、この主張について、武力行使への参加を拒絶する社民共産などの野党はおろか、与党の自民党からも「意味がない」として批判された。



その与党だった自民党がいま、ISAFのような部隊に“積極的に参加“するために、解釈改憲してまで集団的自衛権の行使を容認すべきとしているのだから、当時の議論がいかに論理を欠いたものであったかがわかる。



この議論の本質も、再三各シリーズで述べてきたとおり、単独的自衛権の話である。まず、PKOであろうと武力行使であろうと、それが正当な権限に基づき行われる安全保障措置であるならば、日本はこれに参加できる。これは、小沢元代表の主張と同様で、内閣安保法制懇の見解も正しい。



国連集団安全保障措置に基づく活動は、憲法が禁じる「国権の発動による国際紛争の解決」ではない。憲法が認める国際法により、唯一合法とされる集団安全保障(国際法や国連の規則に違反する加盟国に対する制裁措置)を実現する手段である。よって、これに参加することそれ自体は違憲でも違法ではない、というのが私がこれまで持論としてきた見解だ。

次に、参加にあたって集団的自衛権の行使を容認する必要はない。これは、単独的自衛の権利(共同部隊防護の権利)を認めることにより、即ち部隊行動基準等を見直し、法改正することで対応できる。法改正の前提として集団的自衛権を容認する必要はない、というのも私の見解だ。



まとめると、国連集団安全保障措置への参加は法制度の変更で可能だが、部隊運用のために集団的自衛権の行使を認める必要はない、ということである。なぜなら、たとえばISAFのような多国籍軍であれば、NATOのSROEにより拘束されることで、これを逸脱する行為はとれなくなるからだ。



安倍自公政権の前科




しかし、そもそも集団的自衛権に基づく行動である場合はどうか。つまり、アフガンの場合は米英主導のOEFに参加できたのだろうか。



ここで面白い事例がある。



日本は既にこのOEFに参加しているのである。「後方支援」の名目で。



なぜ当時、自公政権が国連決議により認められたISAFではなくOEFのみに参加し続けたのかは理解に苦しむが、このOEFの海上阻止活動(MIO)に、自公党政権は給油支援という形で参加した。ただし指揮権は別で、OEF-MIOを統括する統合任務部隊(JTF)の指揮下には入らなかった。理由は、「指揮下に入ると武力行使との一体化が懸念される」からだという。



はて、珍妙な。



個別的・集団的自衛権の行使としての武力行使と一体である軍事作戦OEFの海上兵站支援という名の“後方支援”を行っているというに、それが、指揮権が異なるだけで武力行使と一体化していないといえるのだろうか。



ここで更に面白いのが、当時の自民党政府(第一次安倍内閣)が、OEF-MIOへの参加の根拠とした物である。それは、ISAFの活動の継続を認める安保理決議だった。その「本文」ではなく「前文」に、OEF-MIOへの「謝意」が記載されたことから、OEF-MIOは国連に認められた活動であると強弁したのである。



さらにこの後、外務省はカナダ大使主催の晩餐会で日本のOEF-MIOへの貢献が国際的に称賛・支持されているというパフォーマンスを行わせ、OEF-MIOへの参加は「必要」なのだいうことを政府寄りメディアを通じて喧伝した。



つまり、当時の安倍内閣は、個別的・集団的自衛権に基づく武力行使による軍事作戦への参加を、直接それとは関係ない国連決議の前文の解釈や国際社会の評価に基づき、正当化していたのである。集団的自衛権は、既に案に認められていたも同然なのである。



政府解釈で集団的自衛権が認められていない状況の中で、我が国は集団的自衛権に基づく軍事作戦に既に参加し、これを正当化するために国連決議や国際社会の「謝意」を盾に、「法律論」ではなく「必要論」で世論を欺いたのである。



これが安倍自公政権の前科である。



ちなみに、この憲法上「武力行使との一体化」の点で疑義のある「後方支援」活動は、政権交代後、民主党政権によって完全に停止された。



安全保障基本法による新たな縛りが必要




憲法上の権利がなくても法を曲げて集団的自衛権の行使に加担したことのある安倍政権が、今度は憲法上の権利であるという新解釈のもとに、より本格的に集団的自衛権を自ら行使できるようにしようとしている。それが、事の実態である。



ISAFのような疑義のある多国籍軍活動でも、米英仏等が主導で安保理で認めてしまえば、それは合法な国際行動となる。そうなると、日本は厳格な参加原則を設けなければ、無原則に疑義のある活動に関与することになる。



安保理決議に基づく集団安保措置への参加が合憲であり、そのために集団的自衛権の容認は必要ないという整理ならば、集団的自衛権の疑義のある活動であっても、権利なしで参加できることになってしまう。これは、国際法上巧みに合法とされていても、憲法上は合憲と認めるべきではない。



したがって、国連安保措置への参加であっても、どういった根拠に基づく活動なら参加できて、どういった根拠に基づく活動なら参加できないかという参加基準を独自に設ける必要がある。勿論、現行憲法解釈が維持される前提で。



たとえば、「国連安保理決議によって認められる活動であっても、その発端となる行動が国家の個別的及び集団的自衛権の行使に拠るものであった場合は、我が国は参加をしない。」というようなものだ。



この位の独自の参加原則を設けて初めて、我が国は堂々と国連の集団安全保障に対する独自の貢献を行うことができる。こうした原則を含めた「安全保障基本法」のようなもので、現行憲法下で行える行動を適切に管理・統制する必要がある。



こうしたアウトラインやグランドデザインがない中で、原則としても、必要要件としても、集団的自衛権の行使を容認する必要はない。権利の容認なしに、まずできる法整備を行い、できる範囲の支援を行えばよい。



集団的自衛権容認の閣議決定等よりも、必要なのは閣法としての「安全保障基本法」の国会提出と審議である。この閣法を成立させるにあたっても、集団的自衛権を容認する必要はない。



以上、ここまで長文の精読を感謝します。





付録:国連集団安全保障参加三原則(私案)


我が国は、国際平和と安全を守る目的で国連安全保障理事会決議に基づいて行われる集団安全保障措置(軍事的強制措置)に積極的に参加する。但し、参加に当たっては次の要件を検討し、次の要件のいずれかに該当する活動である場合は参加しない。
1. 国際紛争の解決のための武力行使に位置づけられる他国の個別的及び集団的自衛権に基づく武力行使が前提である活動の場合。
2. 我が国が定める部隊行動基準を逸脱する交戦規則が適用される活動である場合。
3. 国連安保理決議が定めた目的に関わらず、当該活動の結果及び目的が、政府転覆など他国主権を侵害する意図を伴うと見られる合理的な理由がある場合。

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