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2014/06/10

長編コラム:些末な政府の集団的自衛権議論が触れないこと④「ユニット・セルフ・ディフェンス」の実態Ⅱ(詳細編)


政府の動きは世論や与野党内の慎重な政治姿勢と相反して今国会内の閣議決定に向けて加速しているが、今一度、政府が主張する「単独的自衛権」(ユニットセルフディフェンス)について米国務省法律顧問C.P.トランブルが2012年に学術誌に寄せた論文に基づいてその概念を整理しておこうと思う。

単独的自衛権の法源


『単独的自衛権の根拠とその武力行使との関わり(仮題)』においてトランブルは、軍の部隊或いは多国籍軍の部隊或いはこれらに所属する個人には、国家或いは国家の集団の統制下にある軍が執行する ROE(交戦規則)により、単独的自衛の権利が認められているとする。


「単独的自衛権」の法源として、トランブルは従来の「国家の自衛権」としての個別的・集団的自衛権の法源とされる国連憲章第51条ではなく、①交戦規則、②各種条約及び③国連慣習に在ると主張する。つまり、単独的自衛が国家の自衛権の一部であるとする諸説を否定する。


トランブルは「単独的自衛権」を「国家の自衛権」の一部とする諸説について、「軍によるいかなる反撃も国家の自衛権の行使とみなされる」とする説や、「国家の自衛権が「戦略的権利」であるのに対し、単独的自衛は「戦術的権利」である」とする説を引用して紹介する。


その上でトランブルは各説に対する反証を展開し、とくに2000年のSROE(米国防総省標準交戦規則)において国家の自衛権の上位性は否定され、寧ろ「単独的自衛権」の独立性が宣言されていると、次のように本文を引用して反論する。


「政府当局が行使する国家の自衛権の権利並びに義務は、指揮官の単独的自衛の権利並びにび義務とは区別されるものであり、またこれらを制限するものではない」(米国防総省標準交戦規則SROE 2000)


トランブルはさらに国際的にまとめられた"San Remo Handbook on Rules of Engagement"を同様に国際ROEとして例に挙げ、さらに「国連憲章は国家の権利や義務を定めるものであり個人の行為の規制には及ばない」とする独自の反論を展開する。


トランブルのより具体的な反論は、個人の犯罪を裁く国際刑事裁判所のローマ規程を引用する。これは、過去にツイートした通りだが、つまり国家の自衛権の名の下に自衛行為を働く個人であっても、個人としての犯罪責任は免れられないということだった。


トランブルはローマ規程の記述から、国際法により兵士には“私人”として“単独的自衛権”を行使する権利が認められており、“公人”として“国家の自衛権”を行使することの刑事責任はこれとは区別されるものであると主張する。


蛇足だがここでトランブルは自己矛盾に陥っている。ローマ規程において個人の権利と公人の権利が区別されているとしても、公人の権利が国家の権利に準ずるものとされているのでは、これまで主張した「単独的自衛権は国家の権利とは区別される」という自説を覆すことになる。だが、そこは深くは突っ込まずに続けるとする。

国家に全ての個人兵士を統制することは不可能という主張の穴


次にトランブルは、国家における自衛権行使の決定が様々な政策決定レベルで行われることを指摘する。「国家の自衛権行使に関する決定は政府の最上層で行われるのは勿論だが、単独的自衛権の行使の判断は現場指揮官に委ねられる」と。


トランブルは更に、「単独自衛権」の行使は現場指揮官だけでなく兵士個人にも委ねられており、「兵士の一挙手一投足が「国家の自衛権」の下に統制されていると考えるのは無理がある」と反論する。

これはもっともな反論のように聞こえるが、この主張にも穴がある。


国家の行為は国際法により縛られており、その国家に準じる実力組織として軍が存在し国家にはこれを国際法に準じて統制する国際法上の義務がある。国内で軍(及び軍の構成員)の行動を統制するに当たり、国家は法律や軍法を定め、軍の規律として国内法及び国際法の逸脱行為を処罰する体制を整える。ここまでが「普通の国家」の成り立ちだ。


ローマ規程はこの国際法上の縛りにより一層の縛りを加えたもので、初めて各国の軍法会議に委ねることなく国際法廷として軍の構成員を個人として罰則を適用する体制を整えた。このような国際的な監視体制下で、現在の国際社会では個人の行為は厳格に統制されている筈なのである。


トランブルはローマ規程により個人と国家の権利の区別が明文化されたと解釈しているが、同時にそれは個人をより強固に統制する責任を暗に国家に求めているということでもある。だから国家・軍には、ローマ規程の管轄犯罪について現場と演習の両方で戦時国際法の周知徹底が求められる。


つまりトランブルの認識とは違い、裁かれるのは個人の権利の逸脱であっても、実質的には戦時国際法の教育や現場を統制する国家及び軍の責任なのである。そういう意味では、国家の自衛権の名の下に行われる行為であっても、国家にはこれを厳格に統制する義務が伴うと考えるのが自然だろう。


「権利には義務が伴う」―この当たり前の社会契約の観念が、この国務省法律顧問には少し欠けているようである。が、ここでトランブルは「単独手自衛権」の正当さの理由として、正にこの社会契約論を持ち出すのである。それは、「単独的自衛」は権利であり義務である」とする考えだ。

単独的自衛権は"逸脱不可能な権利"が国際軍事常識


トランブルは「単独的自衛権」を“逸脱不可能な権利”と定義する米国を含む各国の軍事マニュアルを引きだし、各国ではROEよりも上位の権利として個人の「個別的自衛」の権利が存在し、米軍法務官のROE手引書を引用して、これを行使するのは義務であり、権利の行使それ自体に制限はないと主張する。


一方でトランブルは、国家には自衛の権利はあるが義務はなく、様々な政治・外交的理由から自衛権の行使を回避する選択肢があるとする。国家はこうした意思決定を軍においても徹底するが、先の軍事マニュアル等により個人や部隊防護が優先されるケースも許容されているという。

国家の自衛権と単独的自衛権を区別する:国連PKOのROEを例に


以上のことから、トランブルは、「国家の自衛権は国家主権の下に認められる権利」であるとする考えと、「単独的自衛権は逸脱不可能な権利」であるとする考えが矛盾なく併存するには、これらの権利はそれぞれ別個の権利であると区別しなければならないと結論するのである。

その上で著者は、国連平和維持活動PKOにおける単独的自衛権の運用の実態を例に、国家の自衛権と単独的自衛権は区別されると主張する。国連は国家ではなくかつ、各部隊には単独的自衛権の行使が認められているのが証左だという。


著者の論理では、国連PKOに参加する要員は一部隊の要員であり国家の一員ではないため、部隊に対する攻撃を一国家に対する攻撃と捉えることはできない。この論理は正しいのだが、その根底にあるのは「集団安全保障」の概念である。


実はPKOは国連憲章のどこにも定義がなく、「憲章6.5章機構」とさえ言われている。主に国連安保理決議により承認されるPKOは、憲章7章下として実施されるが、実際はPKOの法源は安保理決議そのものにしかないのである。


憲章6.5章も7章の違いは、「同意原則」である。PKOは受入国の同意があって初めて成立するが、7章に基づく行動は同意原則を必要としない強制行動なのである。したがってPKOとPKO以外の活動では必然と、武装レベルにも差が出る。

国連PKOと国連が認める武力行使との違い


従来の「同意原則」を必要とするPKOと確実に異なる運用が行われたのが、アフガン戦争における平和維持支援部隊ISAFの設立だった。ISAFはアフガン政府の「要請」を受けて設立されたとされるがアフガン政府は国際会議の決定に従っただけだった。


ISAFの主力はNATOだが、当初は米軍の「不朽の自由作戦」OEF隷下の部隊が主力の多国籍軍だった。OEFは米英の個別的自衛権の発動により実施された軍事作戦であり、ISAFとは異なる法的根拠を持つ。


ISAFは安保決議に基づく集団安全保障措置の一環として成立した。元はOEF連合軍だったのが、NATOに主導権を移管して(それでも実質米軍主導)、安保理決議により「追認」された強制措置なのである。


武力を用いた強制措置ということは、当然ながら「武力行使」を容認された活動であるということになる。これが限定的な自衛のための武力の使用のみを認められるPKOとの決定的な違いなのである。したがってPKO部隊に単独的自衛権が認められるのは当然なのである。


武力行使を容認された憲章7章かの安全保障措置では、目的を達成するために「あらゆる手段」の行使が認められる。つまり、認められるのは自衛の権利だけではなく攻撃の権利も含まれる。なぜ米国がイラク攻撃で安保理決議を切実に必要としたかがわかるだろう。


 一方でPKOには「同意原則」の縛りがあり、なおかつ極めて限定的な武器使用(ROE)のみが認められているため、個々の要員及び部隊に単独的自衛の権利が認められるのは、部隊防護の観点からも当然のことなのである。トランブル論文にはこの説明が欠けていた。


著者は以上のことをさておいて広義に国連平和活動PSOとして、たとえば安保理決議1088に基づく旧ユーゴ平和安定化部隊UNSFORを例に挙げる。因みにこれは6.5章のPKOではなく7章に基づく強制行動(武力行使)である。決議は部隊による単独的自衛権の行使を認めた。


著者はこうした強制行動の例を挙げたうえで、今度はPKOには任務に基づく個別のROEにより単独的自衛の権利が認められてきたと主張する。任務遂行のために最低限の部隊防護の機能がPKOに求められると判断されたためだという。


著者のこの主張は概ね正しい。PKOは「敵のない軍隊」とも呼ばれ、その要員は基本「戦闘員」とはみなされない。しかし活動に当たって危険がつきまとい、部隊防護のために最低限の自衛手段と権限が必要とされるため、この権利を特に明記する必要が生じた。


こうしてROEや国連決議に明記するという国連や各国軍の慣習によって、単独的自衛権の権利が固有の権利であるということは、法的確信(opino juris)として認められ、慣習国際法として成立しているというのが、著者の主張だ。


成程、説得力がある。そしてそこから導かれるのは、単に各国のROEでなく、安保理決議という国際法の法源とされる国連慣習も含めて「単独的自衛権」が固有の権利として認められているのならば、国家の自衛権(集団的自衛権)とは切り離してその強化を図れるという結論である。

私案:政府の主張を逆手にとる2つの方策


以降は前回のまとめで述べた通りの内容なのだが、要は、多国籍軍(PKOであるか否かにかかかわら)における部隊防護目的のために「国家の自衛権」を強化する必要もそれ自体も権利として必要ないということである。


民間安保法制懇のメンバーを含む一部識者が主張してきたように、PKO等における部隊防護の強化はROE(自衛隊用語では部隊行動基準)の強化(すなわち武器使用権限の強化)で対処できるのである。国家の自衛権即ち集団的自衛権の容認は必要ない。


もし国民が同意原則に基づく平和維持活動目的の武器使用基準の強化“すら”認められないのであれば、それは平和ボケと揶揄されたり、国際責任の放棄とみなされても致し方ない。私は、国家としての集団的自衛を認めない方策は、次の二通りあると思う。


集団的自衛権の行使容認を認めないが、政府の主張する「積極的平和主義」を逆手にとる2つの方策。

①単独的自衛権の強化(武器使用基準の強化)を武力行使とは切り離して合憲と認める。
②非武装による自衛権行使の強化(DDR等非武装での国際平和活動への貢献を深める)。


個人的には、勿論②の拡大を図りたいし、それが平和立国としての正しかるべき道筋であると思う。だが一方で、途上国がメインのPKOに経済大国として責任ある貢献をしたいという思いもある。その意味では、①②の並立がもっとも現実的な方策ではないかと思う。


以上、米国務省法律顧問の論文と、自分の持てる知識を総動員して、現状の打破を目指して2つの方策を示してみたが、皆さんはどう思われただろうか。

ご意見・ご感想お待ちしています。
ご精読ありがとうございました。


トランブル論文(補足):この連投ツイートのまとめは、いずれFacebookのノートやブログにも転載します。各ツイートを連続して読みたい場合は、以下の私のTwilogで「トランブル論文」と検索してみてください。

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