photo by kind courtesy of @atuktekt (*click the photo for details)

2010/12/24

勝手訳:"Forbidden Colours" by David Sylvian

Click the title for the true-to-the original translation of this song.

邦画『戦場のメリークリスマス』の本編では決して使われることのなかった隠れた名曲がある。デイビッド・シルヴィアン(David Sylvian)という英国アーティストが、坂本龍一作曲の『戦場のメリークリスマス』(原題「Merry Christamas, Mr Lawrence」)に歌詞をつけ編曲したもので『Forbidden Colours』(邦題「禁じられた色彩」)という曲だ。


国内販売のサントラには、どうやらこの曲は含まれていなかったようだが、俺が在学時代にアメリカで購入したサントラにはこの曲が含まれており、俺は長年、なぜこの曲が本編で使用されなかったのか不思議に思っていた。


ネットでの情報を探ってみると、この曲は三島由紀夫の『禁色』にインスピレーションを得たもので、同性愛を「禁じられた色彩(いろどり)」として歌った曲だという。ならば、この詩が映画本編で使われなかったことも納得がいく。訳詞はあるようだが、個人による要約でしかないことがソースを辿ってみてわかった。


大島渚監督はあらゆる形の情愛を分け隔て無く描くことで有名で、同性愛を題材にした作品も多いが、『戦場のメリークリスマス』は単に「禁じられた色彩」=同性愛を扱った映画ではないと思う。また単なる反戦映画でも、単なる戦争映画でもないと思う。


俺はこの曲を繰り返し聴くうち、この曲が映画本編で使われてもおかしくならないテーマを感じ取った。それは、「禁じられた色彩」=戦時における人間愛の発現。これこそが「Foribidden Colours」なのではないかということ。そしてこの色は戦時には交わることが禁じられ、戦争が持つ色の無い、灰色の世界を彩る色彩(いろどり)の誕生こそが、戦時に禁じられる人間愛の発現なのではないか、そうした戦時における、人としての当然の心の葛藤を訴えたいのではないか。


こういうまったく自己(勝手)流の新解釈で、唯一の既存の和訳(要約)といえるものを練り直し新訳としてみた。ただ、キリスト教の禁忌(タブー)としてのソドミー(男色)を唄うくだりもあるので、こうした部分も自己(勝手)流でかなり強引にアレンジしてみた。



Readaptation by Etranger

手にした傷は けっして 癒えることはない

信じてさえいれば報われると 私は思っていた

彼らとの間には 越えられない 距たりがある
イエスの教えに従うべきか 内なる衝動に委ねるべきか

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども私は 人の営みを信じる

無意味な歳月があっという間に過ぎさり 
無数の人々が喜んで 命を捧げていく
それでも 何も残らないのか?

わきおこる衝動を抑えようと
私は心の奥深くに 自分の気持ちを沈める

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども 私はいま一度 人の営みを信じる

己の拠って立つ所すら 信じきれないのに
何もかも盲目に 信じこもうとしつつ
答えのない問いを 繰り返す自分がいる

彼らとの間に 越えられない距たりを感じる 私がいる
イエスの教えに従うべきか 心変わりすべきか

この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども私は 人の営みを信じる
この愛は 禁じられた色彩を帯びる
けれども 私はいま一度 人の営みを信じる

Original lyrics by David Sylvian (thru dictation) 

The wounds on your hands never seem to heal
I thought all I needed was to believe

Here am i, a lifetime away from you
The blood of christ, or the beat of my heart
My love wears forbidden colours
My life believes

Senseless years thunder by
Millions are willing to give their lives for you
Does nothing live on?

Learning to cope with feelings aroused in me
My hands in the soil, buried inside of myself
My love wears forbidden colours
My life believes in you once again

I'll go walking in circles
While doubting the very ground beneath me
Trying to show unquestioning faith in everything
Here are you and i, a lifetime away from you
The blood of christ, or a change of heart

My love wears forbidden colours
My life believes
My love wears forbidden colours
My life believes in you once again

2010/10/22

My Full Winning Response to The Sergio Contest#3(「セルジオ」DVDコンテストでの授賞解答全文)

CONTEST #3 QUESTION: The Merriam-Webster dictionary defines HUMAN RIGHTS as "(n) rights (as freedom from unlawful imprisonment, torture, and execution) regarded as belonging fundamentally to all persons" What are some basic Human Rights and how can we support Human Rights around the world?


コンテスト#3の質問:メリアム・ウェブスター辞書によれば、「人権」とは“すべての個人が生来持つ基本的権利(不法な投獄、拷問及び処刑からの自由等を含む)”と定義されています。基本的人権にはどのようなものがあり、どのようにして人権を守って行くべきだと思いますか?


My Winning Response:

One of the most basic human rights are right to life, liberty, and security. Acts that limit or violate these rights, such as slavery, forced imprisonment, and torture are prohibited under customary international law and international conventions. To safeguard these rights and to bring to justice those violate them, a group of states agreed in 1998 to set up an independent international criminal court that would prosecute the perpetrators of these crimes. 
The Court is now fully functional with over 100 state parties, but cooperation to the Court is not guaranteed universally and there are still many major states, including the United States, Russia, and China that not only remain a non-state party to the Court's statute but even oppose it. One of the ways to strengthen this international justice system is by lobbying to the governments to support the Court, and join the statute that acknowledges its jurisdiction. I've done so by lobbying my own government in Japan. And Japan became the 105th state party to join the Court. Other non-state parties and their citizens, should follow suit.
授賞解答:

基本的人権の最たるものとしては、生命、自由、安全に対する権利が挙げられる。これら諸権利を制限する、あるいは侵害する行為(奴隷化、不法な投獄、拷問)は、慣習国際法および国際条約によって禁じられている。これら諸権利を保護し、これらを侵害する者を裁くため、国際社会は1998年、これら犯罪の加害者を訴追する独立の国際刑事裁判所(ICC)を設置することに合意した。

ICCは現在フルに稼働しておりその加盟国は100を超えるが、ICCへの協力は普遍的に保障されているものではなく、また米国やロシア、中国等の大国の多くが加盟しておらず、反対すらしている。この国際刑事裁判制度を強化する方法の一つとして挙げられるのは、各国政府に対して、ICCへの協力と、加盟によりその管轄権を受託するよう働きかけることである。私は日本政府に対してこの働きかけを行った。そして、日本は105番目の加盟国となった。他の非加盟国も、そしてその国民も、同様の働きかけを行うべきと考える。

2010/09/16

【メディア論考】勝手訳:ジェイ・ローゼン教授の「真・ジャーナリズム入門」2|『ジャーナリストが心得るべき11のモラル・チェックリスト』

Click the title for the original post "How to know if you are behaving ethically as a journalist: Jay Rosen’s checklist" by Prof. Jay Rosen

前回「真・ジャーナリズム入門」として抜粋訳を紹介したニューヨーク大学ジャーナリズム学部のジェイ・ローゼン(Jay Rosen助教授が、2009年12月の講義でも為になる考察を提供していることを知り、さっそく読みながら翻訳してみた。今回は対象記事が短いので日英併記とする(実は、これが一番作業しやすい)。

どうやら、本来は10箇条だったらしいが、後に1点追加したらしい。そこも忠実に訳出する。



『ジェイ・ローゼン流:ジャーナリストとしての倫理的な報道の心得を確認する11のモラル・チェックリスト』
How to know if you are behaving ethically as a journalist: Jay Rosen’s checklist

Presented today to my class in press ethics at NYU
大学での報道倫理の講義で使用したテキスト(2009年12月)



1. Your primary interest is in telling the truth and documenting the real.

1. 自分の第一の関心は、「真実」を伝え、「事実」を記録することである。 ( )


2. You’ve eliminated, drastically minimized or clearly revealed any conflicts of interest you may have in telling the truth.

2.「真実」を伝えるにあたり生じる利害関係を、明示、最小化、あるいは完全に消化している。( )

3. You’ve told us what we need to know in order to know where you're coming from, and to decide how much credence we should give your account.

3. どのような立場から情報を伝えているかを読者に明確にし、読者が報道の信頼性を推し量るための材料を与えている。( )


4. You have not relied on deception, lying or trickery to obtain the information in your account.

4.嘘や誤魔化し、策を弄して報道に使う情報を入手していないか。( )

5. You’ve made it clear to everyone you are using as a source that you are a journalist doing journalism for public use. 

5. あらゆる情報提供者に対し、自分がジャーナリストであるということ、並びに公共利用(パブリックユース)の為の報道であることを明示しているか。( )


6. You have reason to think your sources are reliable if you have in fact relied on them to make your account truthful.

6.  報道を真実に基づくものとするため、使用した情報は信頼できるものであるという合理的な確信がある。( )

7. You are trying as hard as you can (within the constraints journalists labor under) to make certain that every fact you pass along is accurate: before, during and after production.

7.  製作前、製作時、製作後のいずれの過程においてもジャーナリストの領分で出来うる最大の範囲で確証ある事実を報道するよう心がけているか。( )

8. You deal in the verifiable, meaning that what you said happened could in theory be checked--verified--by someone else.  

8.  検証可能な報道を行っている、すなわち報道した事実は第三者によって確認できる論理的可能性があるか。( )


9. You’ve asked whether there is a substantial public interest in telling stories that are likely to also injure private persons.

9. 個人(の名誉)を傷つける可能性のあるストーリーであっても、市民の重大な関心事であること(又は公共の利益に適うこと)を確認したか。( )

10. You are not working for any interest other than the public’s interest in knowing what the hell happened.
and... (added later)

10.  「何が起きたかを把握したい」という公共の利益に質する作業であるという目的のみで作業に携わっているか。( )

本来ここまでだが後に追加。


11. You have credited those you borrowed from and made clear who originated any material you are re-using.

11. 「他者から引用(借用)した情報について、その出典を明示し、再利用した出典については、その原本著者を明示したか。( )

以上

Original Text by Jay Rosen
Translated by Etranger

2010/09/08

【メディア論考】勝手訳:ジェイ・ローゼン教授が次世代のジャーナリスト予備軍に贈る「真・ジャーナリズム入門」

Click the title for the original post "The Journalists Formerly Known as the Media: My Advice to the Next Generation" by Prof. Jay Rosen

ニューヨーク大学ジャーナリズム学部のジェイ・ローゼン(Jay Rosen)助教授が、2010年9月パリ政治学院でジャーナリズムの学徒たちに向けて行った講義の内容が興味深い。とくに関心を引いた後半部分のみを抜粋して翻訳してみた。



『かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト』
The journalists formerly known as the media

かつて聴衆と呼ばれた人々(2006年)
The people formerly known as audience
「かつて聴衆と呼ばれた人々」(The people formerly known as audienceは、その存在と、誰もが知る地殻変動によるパワーシフトが起きていることを「メディア」に知らしめようとしている。船の乗客が、自身の船を持ったようなものだ。「執筆するリーダー(reader)」「カメラを構えたビュワー(viewer)」。かつては「核化」されていた「視聴者(audience)」たちが、いまでは容易に互いに繋がりあって、世界に自分の言葉を発信することができる。

今日は、この考え方に一つ付け足したい。

なぜなら、「かつて聴衆と呼ばれた大衆」の誕生により、「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」(The journalists formerly known as the mediaも誕生したからだ。私たちに代わってこの定義を見つけだす機会が、次の世代のジャーナリストの卵である君たちに委ねられている。

デジタル革命は因果律を変えてしまった。新しい力の均衡が生まれ、生産のツールや分配の力が、「かつて聴衆と呼ばれた人々」の手に移った。

だから君たちには、「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」に自ら望んでなる機会がある。「そこにいる」受け手側の人々にジャーナリストが何を与えられるかを新たに実践してみせる、いわばキャリア組だ。「新たに」とは言っているが、実際は長きに渡る闘いの新たな章の幕開けという意味にすぎない。闘いとは、いかにして、物事を注意して知ろうとすることにより、それを自らの知識とし、何を為すべきかを主張することを是とするパブリック(publicを誕生させるかということだ。

「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」という概念について、もう少し掘り下げてみるとしよう。私がジャーナリズム学研究本の中で一番好きな言葉を使うとしよう。マスメディア研究で有名な英国の作家であり社会学者であるレイモンド・ウィリアムズ(Raymond Williams)のものだ。

ウィリアムズは1958年に著書『文化と社会』でこう書いている。

「大衆というものは存在しない。人々を大衆としてみる方法があるだけだ」

解説すると、ウィリアムズは地方紙のいう「リーダー」(readersすなわち、同じ地に住み学校や仕事に通い、同じ待ちを歩き政治に参加する人々が、英国全土で売られる大手新聞やタブロイド誌のいう「リーダー」とどう違うのかを比較しようとしたのだ。

人々を「大衆」(massesとみなす技術は、マスコミやマスメディアのプロたちが1850年から2000年位までの約150年間専売特許とし続けた技術だ。

しかし現代になって、これが単なるインターバル(intervalに過ぎなかったということ。ひとつのフェーズ(phaseでしかなく、パブリックに届けるツールが一時的に私たちの手に密集していたに過ぎなかったことが分かってきた。

プロフェッショナル・ジャーナリズムの誕生は、1920年代にまで遡り、このフェーズの間ずっと生きながらえてきた。しかし、もう一度いう。これこそが、君たち次の世代が解放されるべき「枷」なのだ。「かつてメディアと呼ばれたジャーナリスト」は、別の技術を専売特許とすることでこの枷から自らを解き放つことができる。それは、「人々」を、自らメディアを創る力を持つに至った「パブリック」とみなす技術だ。
(※太字:ローゼン教授本人が「これが言いたくて書いたようなものだ」とする強調指定部分

私からのアドバイス

最後に、「人々をパブリックとみなす」というこのフレーズが、君たちの世代のジャーナリストにってどういう意味を持つかを、これに内包される十の意味を説明してこの講義を締めくくるとしよう。

1. 「リーダー」(readers)「ビュワー」(viewers)「リスナー」(listener)、「コンシューマー」(consumer)といった言葉を「ユーザー」("users")に置き換えること。
ジャーナリズムの一端を担う人々のことを私たちは何と呼んでいるか思い起こしてほしい。

私は、「プラットフォーム中心」の考え方を極力なくすことが肝心だと思う。彼らに届けるツールに合わせて呼び名を変えるのではなく、単純に「ユーザー」と呼ぶのだ。デイヴ・ワイナー(Dave Winer)言うように「ユーザー」は、より活動的なアイデンティティを持つ。どのプラットフォームでも使えるし、さっきも言ったように、ユーザーをどのように捉えるかが、ジャーナリストとしての自分の有能さを決定付ける。

2. ユーザーは君たちよりはるかに物を知っている。これを忘れないこと。

これはダン・ギルモア(Dan Gilmour)の有名な宣言「私の読者は私より物事を知っている」My readers know more than I do)からヒントを得ている。つまり、集約的に捉えれば、受け手側の人々は、たった一人のジャーナリストよりもはるかにより多くの知識を得るし、より多くの接触があるし、より多くを経験するし、より多くのアイディアを持つということだ。これはずっと真理だった。1950年代も真理として通用した。だが、インターネットは、そういった人々、つまりジャーナリストよりも多くの物事を知っている人々が、実際に君たちに向き合ってリーチアウト(reach outして、その知識を届ける(そして教える)ことを可能にした。

こう考えてみて欲しい。

ニューヨークタイムズが「持つ」(own最大の売りは何だろう。その名前と名声だ。二番目の売りは?スタッフの才能と経験だろう。では三つ目の売りは?洗練されたユーザーとそのユーザーが持つ知識だ。これらの「売り」を難なく維持できるよう、その売り物を常に洗練し続けないと、このとてつてもない戦略的アドバンテージを生かしたことにはならない。タイムズのデスクは、このことを十分承知している筈だ。

3. ジャーナリズムの相互化という大きなパワーシフトが起きていることを認識すること。

これは、「ザ・ガーディアン」の編集長であるアラン・ラスブリッジャー(Alan Rusbridger)の考え方で、「相互化された報道組織」("the mutualized news organization")のことを意味する。

彼が言っているのはこういう事だ。

私たちには、エディティングや、リポーティング、スペシャリティ、(情報への)アクセス、肩書き、そしてプロフェッショナルとしての職業倫理や膨大な読者層等の人々が信頼するブランドという価値を提供することができる。このコミュニティの「内」にいる者は、個々にそれらの視聴者を獲得したり視聴者に情報を届けたりすることはできない。だがこれらをそれぞれ「組み入れる」(includeことで、個々ではおよそ不可能な、多様で専門性に富んだ現場レポートを届けることができるわけだ。

私たちはこうした価値を届けることができる。だが、それはユーザーも同じだ。だから、彼らも「組み入れる」のだ。「人々をパブリックと見なす」とは、つまりそういうことなのだ。

4. 人々が参加したくなるように物事を描くこと。

人は参加の意欲を持てば、情報を自分で探しだそうとする。情報のプロバイダは、この関連性をよく理解しておく必要がある。かつて、私はエコノミスト誌にこう語ったことがある。

「個人的には、ジャーナリストたるもの、人々が政治に参加する意欲を持てるようなに物事を描くべきだと思っている。それがジャーナリストの存在意義だ。だが、私たちはあまりにも、情報通のアナリストであるかのように捉えられがちで、私たち自身も一定の距離を置いて物事を捉えようとしがちになる。まるで、私たち自身が私たちの民主主義社会における傍観者であったり、善良な市民を操り人形にしているかのように。可笑しな話だろう?」
この記事の発売後にエコノミストのライターがのちほど書いた次の考え方は正しい。

「政治に限ることはなかったかもしれない。より一般的に考えて、政治的な営みであれ、ローカルな営みであれ、市民の営みであれ、文化的な営みであれ、人々があらゆる営みに参加できるよう、ジャーナリストは物事を描くべきなのだろう。それが、ジャーナリストの仕事なのではないか」

5. 誰でも「できる」からといって誰もが「する」わけではないということ。

ソーシャルメディアやネット行動学を学ぶ者ならば、「1パーセントの法則」one percent rule)は十分に認識していると思う。この法則は、オンライン上のあらゆる環境で観測されているからだ。

これは経験則に基づく新しい法則で、100人の人々がオンライン上に居たとしたら、そのうちの1人がコンテンツを創り、10人がコメントしたり、改善を提案するなどしてそのコンテンツとインタラクトする。残りの89人はただ閲覧するだけだ。つまりどういうことかというと、オンラインにあまり期待するなということだ。映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の台詞じゃないが、「自分で創れば、彼らはやってくる」(if you build it, they will come)。

ただ、リアルの世界と同じで、問題は創る「彼ら」をどうやって見つけるかだ。

これを私流に言うと「誰でもできるからといって誰もがするわけではない」ということになる訳だ。だが、「誰もできる」という部分には依然として価値がある。なぜなら、「誰」が最初に「創ろう」という誘いを受けるか分からないからだ。

この「1パーセントの法則」を把握していれば、現実的に物事を見ることはできる。人々を「パブリック」と見なすからと言って、彼らが意欲を持って思って事に臨んでくれるなどと希望的観測を抱いてはいけない。「かつて聴衆と呼ばれた人々」が何をできるか、できないかを過小にも過大にも評価しない。これが大切だ。

6. ジャーナリストは特別な階級ではないということ。

単に知識に明るい情報通の市民(just a heightened case of an informed citizenであるというだけで、ジャーナリズムは脳外科手術の執刀やボーイング747を操縦するような高等技術を必要とするわけではない。プロのジャーナリストは、どう情報を仕入れ、質問を投げ、ストーリーを語り、点と点を線で結ぶかを知っている。これは秘伝の技でも特殊技能でもない。どんな賢い一般市民でもできる、ちょっとした高等技術でしかない。この技術は、ディベートなどで記者に変わって一般市民が質問に立つときなどに垣間見ることができる。たいてい、彼らはプロのジャーナリストと同等あるいはそれ以上の技術を発揮する。

ここにヒントがある。

7. 私たちの権威は「私はここにいるが、貴方はここにいない。だから私が伝えてやろう」というこの一点に帰着すること。

もし「誰もが」メディアを作り上げ、世界と共有できたら、一体プロのジャーナリストの何がそんなに特別なんだろう。どこに、そのジャーナリストの伝えることに耳を傾ける価値があるのだろう?プレスの証明書?署名記事?大手通信社に雇用されているという事実?そのどれでもない。

プロのジャーナリストにとっても最も信頼に足る権威の源は、やはりジェームズ・キャリー(James W. Carey)がいうように「レポートすること」(発表ジャーナリズム)だ。自身がレポートしている時こそ、正にユーザーたちに向かって、「私はここにいるが、貴方はここにいない。だから私が伝えてやろう」と堂々と言える。

こうとも言える。

「私はデモにいたが、貴方はいなかった。デモで警察がどんな行動をとったか教えてやろう」

さらに、もう少し変形させると(ただしことのエッセンスは保つと)こうとも言える。

「私は爆発が起きた石油の採掘現場で働いていた作業者を取材したが、貴方はしていない。彼らがなんと言ったから教えてやろう」
さらに、こんな風にも言える。

「私は実際にあの書類を精査したが、貴方はしていない。あの書類から何がわかったか教えてやろう」

君たちの権威は、「仕事」をすること(when you do the workで初めて生じる。つまり、アマチュアやブロガーが同じ「仕事」をしたとしても、同じ権威が得られるのだ。人々を「パブリック」と見なすということは、恨みっこなしでその権威を彼らに認めるということだ。

8. 私たちは、どうにかして人々の要望を汲み取り、要望する術のない人々の要望に応えなければならないこと。

Webは人々の要望がどういうものかをいともたやすく私たちに見せてくれる。したがって、ユーザーの行動を推し量ることもたやすい。人々が「いま」何に興味を持ち、何を探し、何をクリックし、何を見ているかが、一目瞭然で分かる。この「生きた情報」を優秀なジャーナリストならどう扱うか。答はもう喋ってしまった。人々の要望を汲み取り、要望する術のない人々の要望に応えるのだ。なぜなら、彼は「それ」が何であるかまだ自覚していないからだ。

実はこれらのことには明確な関係性がある。要望を汲み取るのは巧ければ巧いだけ、「ユーザー」が君がこう言ったときに耳を傾ける確率が高くなる。

「貴方はこんなことは大したことない、興味ないと思うかもしれない。だがこれは間違いなく重要な情報です

あるいは、こういう言い方もある。

「これはいい!」

「ユーザー」が求めるものを無視するのは愚かだが、クリック率で編集するのもまた別の意味で愚かだ。「ユーザー」に対する信頼は、この中間にある。わかるかな?

9. 信頼されたいのならば「曖昧な視点」の立場を取らないこと。

むしろ、どの立場からなのかを明確に伝えたほうがいい。人々を「パブリック」として扱うということは、彼らを「上から目線」で捉えないことを意味する。はっきりとした立場、利害、視点、あるいは学術的用語で申し訳ないが「状況付けられた自己 」(situated selfはないと主張するよりも、「ユーザー」と同じ目線に立って、自分の立場を明らかにすることだ。

デイビッド・ワインバーガー(David Weinger)が言うように、「透明性こそ新たな客観性である」"transparency is the new objectivity.")。「曖昧な視点」の立場をとらず、むしろ立場を明確にすれば「ユーザー」の信頼は勝ち取りやすい。

(私はこうして実践してみせた。)

10. デトクヴィル(DeTocqueville)が言ったこと、すなわち「新聞がつながりを創り、つながりが新聞を創る」という言葉をじっくり噛みしめること。


フランス人のアレクシス・デトクヴィル(Alexis De Tooqueville)が、1830年代にアメリカを訪れたときに残したのが、「新聞がつながりを創り、つながりが新聞を創る」("newspapers make associations and associations make newspapers."という観察だった。彼はおそらくこう言いたかったのだろう。

「共通の関心があってそれを互いに話したいとき、それこそが優秀なジャーナリストにとって絶好の機会となる」(wherever people have a common interest and wish to discuss it, there lies an opportunity for a smart journalist.

私たちの生きる現在を目まぐるしく塗り替えていっているのは、似たような人々がいともたやすく互いを見つけ合い、情報を共有し合い、知識を蓄積し合い、そのインタラクションの結果を世界に向けて発信できるということ。つまり、同じ関心や、問題や興味を共有する人々が互いに出会うコストが急落しているということだ。

ネットはこの行為をごくありきたりなものにしつつある。たとえば、医療では完治できなかった症状を持つ二人の人間が、互いをネットで発見して互いに抱える不満を話し合うようになる。賢いジャーナリストなら、このことに気付き、十分ストーリーの価値があることだと分かるだろう。

関心を持ち情報に長けた大衆という偶像を実体化、あるいはより現実化する闘いはまだ続く。テクノロジーやマーケットが変われば、その過程の産みの苦しみで新しいことが「考えられる」ようになる。すなわち、ジャーナリズムそのものが、次の成長過程に入り、現在を卒業したと思えばいい。

幸運を祈る!


以上

Original Text by Jay Rosen
Translated by Etranger

2010/06/19

超訳:再生する望み "Renewed Hope"


本稿は、6月20日付で英字誌The Diplomat公式ブログの『Tokyo Notes』に掲載された"Hatoyama's Naked Dance"という記事と、その元になった原稿を融合した“超訳”的試みです。The Diplomat掲載の原文についてはタイトルをクリックしてください。



遂に、長い沈黙が破られた。

後任の菅総理が就任してから1週間を経て、そして通常国会閉会の前日に、鳩山元総理がついに沈黙を破った。しかもテレビ放送の中ではなく、雑誌や新聞記事の中でもなく、ツイッター上で

元総理は誰に向かって呟いていたのか。それは、全国民に対して、そして、彼のフォロワーに対しての呟きだった。ここでいうフォロワーとは、ツイッター用語でいうところの「フォロワ」ではなく、指導者に追従する支持者や賛同者のことを表す。

では、退任後の短い、でも完全な沈黙を破って彼はどのような言葉を呟いたのかというと、このようなことだった。


ここで言われる「裸踊り」とは、日本語の感覚でいえば衆人環視の中で恥をさらす愚か者のことを意味すると思われるが、鳩山元総理を何を言わんとしたのだろうか。

ツイッター用語でいうところの彼の「フォロワ」たちは困惑した。どういう意味で「裸踊り」という言葉を使ったのか、もっともらしい憶測が飛び交った。

この話題となった呟きの翌日、元総理はもう一度、YouTube動画のリンクとともに、こう呟いた。


言葉より、ハッキリとした行動(動画)で見てみよう。

動画が物語る元総理の真意



(※日本語字幕付きです)

この動画のメッセージはひじょうにわかりやすかった。鳩山元総理が、これまで伝えようとしてきたどんなことよりも、クリアに伝わった。

この動画の中で、元総理が八ヶ月という短命政権の中でひた隠しにしてきたものが、デレク・シヴァーズ(Derek Sivers)という、デジタル音楽業界に革命をもたらした一人の若い有能な実業家によって、明らかにされた。(詳細:すみっち通信)

実際、ツイッター上では数人の識者がある仮説を立てていた。それは、元総理が「愚者」を装っているという、希望的観測だった。一部の識者は、彼の見事なまでの「愚かな立ち振る舞い」には隠された意図があるとすら確信していた。

世に広めたい秀逸なアイディアばかりを集めることですっかり有名となった“TED”の短いビデオの中で、シヴァーズはでこのように述べている。 

"The first follower is what transforms a 'lone nut' into a leader."
(最初のフォロワーが、一人のバカをリーダーへと変えるのです)

しかし、私自身を含む多くの人間が、これはあくまで希望的観測で、最終的に元総理は国内外の圧力に屈して、(普天間飛行場の)現行移設案を受け入れるだろうと冷めた見方をしていた。実際、そうなった。しかし、それにはちゃんと理由があったのだ。

 
遂にささやかれた、あの地名

鳩山前政権が実質的な終焉を迎える6月16日付けの毎日新聞の『記者の目』という記事に、当時の小沢幹事長と鳩山総理の間でささやかれた一連の言葉が詳細に綴られた。

記事によると、菅現総理が国会の州銀本会議場で首班指名を受けているその最中に、小沢幹事長は川内博史議員の肩をぽんと叩き、こう言ったという。(川内議員の党内での活躍についてはこの記事を参照)

「君、サイパンに行ったんだよなあ。今度ゆっくり話を聞かせてくれよ」

さらに記事は、当時の鳩山総理が同議員に対して言った言葉も綴る。それは、川内議員が自分の席に戻りがてら、総理に「おつかれさま」と声をかけたことへの返答の言葉だった。川内議員は毎日の取材に対し、この言葉から「自らの思いを実現できなかった無念さ」を感じ取ったと答えたという。

「やっぱり、テニアンだよね」

記事によれば、ここに込められてた「思い」とは、「対米依存の安全保障からの脱却」だったという。

この言葉を知り、望みを捨てずにいた我々は、新たな強い望みの芽生えを、その再生を感じた。この思いを確信へと変えたのが、退任したばかりの元総理のあの1回の呟きだったのだ。

米国はこの動きを十分に警戒すべきだ。
 
引き継がれる「対米脱却」の志

新政権は確実に、現行案に近い形で合意を「フォロースルー」する。そしてそれは間違いなく、全国民規模の反発を呼ぶだろう。それが、鳩山元総理の「裸踊り」の狙いだったからだ。


一部の報道では、「裸踊り」ツイートの目的は、『新しい公共』円卓会議が一人歩きし始めたことへの、元総理の喜びと決意を示したものだとする。だが、果たしてそれだけだろうか。「新しい公共」に向けた動きを、「裸踊り」のような「愚かな立ち振る舞い」として捉えた報道はあっただろうか?深い沈黙を破った元総理の真意は、さらに深いところにあり、2つのツイートはこれを暗喩していたのではないか。それは、普天間問題に踏み込むことを憂慮した故ではないか。そう捉えることもできる。
 
この捉え方に基づけば、国家安全保障上の課題が、日本全国民の利益を損なうことは、最早なくなるだろう。いまや沖縄県民が求める利益は、全国民の求める利益と同義となった。彼らが求める利益は、単純明快である。

「主権を尊重しないのならば合意は履行されない(できない)」ということだ。

これはすなわち、米側が0528合意を「フォロー・スルー」して、安全基準の改善や、環境への実体ある配慮を行わないかぎり、合意は履行されない(履行を阻止されるであろう)ことを意味する。この場合、当然、普天間飛行場は沖縄県外ならびに日本領外に移設されることとなる。米側がこれらの事項を実体ある形で遵守するには、課題山積の地位協定の改定も当然、視野に入ってくる。

話はここで終わらない。望みは生き続ける。
最後には、絶望ではなく、希望が残されたのである


Originally written and translated by Etranger
 

超訳:打ち砕かれた望み("Shattered Hopes")


本稿は、6月3日、米誌The Diplomat公式ブログの『Tokyo Notes』に掲載された"Shattered Hopes"という記事と、その元になった原稿を融合し、さらにこれまでツイッター上で行われた様々な議論を総合して行った“超訳”的試みです。The Diplomat掲載の原文についてはタイトルをクリックしてください。



2010年6月2日、
鳩山総理が行った突然の(かつ予期された)辞任表明は、日本全土を震撼させた。首相を支持する者も、そうでない者も、ともに強い衝撃を受けた。だが最も衝撃を受けたのは、「Xデー」の直前まで、一縷の望みを託し続けた国内外の多くの人々だった。彼らにとっての「Xデー」とは、鳩山総理が辞任を表明した日ではなく、日米安全保障協議委員会(SCC)によって新合意の内容が公表された5月28日だった。

この新合意の内容が公表されるまさに直前まで望みを捨てずにいた人々にとって、その内容は大いなる落胆と失望をもたらすものでしかなかった。この絶望感と憤りは、特に沖縄県名護市と鹿児島県徳之島の住民によって共有された。名護市と徳之島は新合意の中で、在沖海兵隊普天間飛行場(MCAS)の飛行機能と訓練機能の移設候補先として、それぞれ指定されていた。

「両政府は,オーバーランを含み,護岸を除いて1800mの長さの滑走路を持つ代替の施設をキャンプ・シュワブ辺野古崎地区及びこれに隣接する水域に設置す る意図を確認した。

「両政府は,二国間及び単独の訓練を含め,米軍の活動の沖縄県外への移転を拡充することを決意した。この関連で,適切な施設が整備されることを条件として, 徳之島の活用が検討される。」

二つの県の首長はいずれも、政府の要請を拒否する姿勢を固持していた。新合意は、これら地方自治体の人々にとって、政府が彼らの切なる望みや願いよりも、二国関係を重視したことの象徴となった。

そんな矢先に、政府のトップが辞任を表明したのだから、彼らの最後の望みは無残にも打ち砕かれてしまった。

優先されたのは国家安全保障上の課題

彼らのように希望を持ち続けた人々にとって、首相の辞任表明は、米軍基地の存在に悩まされている人々のために戦うことを
首相が放棄したことの証だった。彼らにとってそれは、非力で優柔不断な首相が、国家の首班として守るべき国民の利益や生活よりも、国家安全保障や二国間同盟を選んだことを意味した。

最終的には、国家安全保障上の課題が優先された。

「日米同盟が日本の防衛のみならず,アジア太平洋地域の平和,安全及び繁栄にとっても引き続き不可欠であることを再確認した」と書かれた
SCC合意の序文には、なぜその確認がなされたのかを示す理由がハッキリと記されていた。


「日米同盟が日本の防衛のみならず,アジア太平洋地域の平和,安全及び繁栄にとっても引き続き不可欠であることを再確認した。北東アジアにおける安全保障情 勢の最近の展開により,日米同盟の意義が再確認された。


北朝鮮によるものとみられる韓国哨戒船への攻撃が、全てを変えてしまった。その攻撃を行ったとされるたった1発の魚雷が、地域安全保障の均衡だけでなく、多くの人々望みをも破壊してしまったのである。

この危険な安全保障の「ゲーム」は、まだ終わらない。

日米両国に翻弄される国内外の地元の苦悩

共同通信によれば、 首相が辞任を表明するほんの1日前、米連邦議会は在沖海兵隊のグアム移転先費用を定める予算案(国防権限法案)の現行案のままでの採択を見送り、大幅な予算削減を求めたという。

同通信社が独自に入手した議会の内部資料によれば、米上院軍事委員会は、予算枠を政府提案額の70%にまで削減し、SCC合意に記載された米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の代替施設建設に関し県知事の埋め立て許可が得られていない」ことをその具体的な理由として挙げた。

SCC合意の内容に憤る人々は、米議会のこうした動きを、合意の遂行に努める日本の実務者に対する明瞭な圧力として受け止めている。そして、最近明らかにされたあるもう一つの事実が、この確信をさらに強めた。一連の報道が裏付けられた形となったからだ。


共同のもう一つの記事によれば、日米両政府は8,552名の海兵隊員と約9,000名の家族をグアムに移転するに当たり、「移転完了期限を2014年から3~5年延長する方向で本格的な検討に入った」という。これは当然、これまで合意された諸処の日程を変更することを意味する。

(参考) 


共同の記事が強調し、グアム移転協定にも明記されたとおり、最新のSCC合意では、「海兵隊約8千人のグアム移転は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設と不可分」であると規定されている。
「閣僚は,2009年2月17日の在沖縄海兵隊のグアム移転に係る協定(グアム協定)に定められたように,第三海兵機動展開部隊(MEF)の要員約8000 人及びその家族約9000人の沖縄からグアムへの移転は,代替の施設の完成に向けての具体的な進展にかかっていることを再確認した。グアムへの移転は,嘉 手納以南の大部分の施設の統合及び返還を実現するものである。」

記事が指摘するように、移転完了の大きな遅れが、「日米両政府が8月までに位置や工法を詰める 普天間移設の代替施設計画にも影響」するのは、間違いないだろう。


この事実は、望みを保ち続ける人々にとってさらなる追い打ちとなる。なぜなら、米政府の一方的な要求がこうした事態を招いているのではなく、日本政府も完全に一体となった動きであることを、これらの事実が指し示すからだ。すなわち、彼らは日米両政府に翻弄されているという確信をますます強めたのである。

いまいちど、「国民のための外交」への回帰を

「国民不在の政治」という言葉があるように、外交においても「国民不在の外交」がまかり通り、多くの人々の希望を打ち砕いた。しかも、彼らには、その怒りの矛先を、現政権(当時)を政権に就かせた自分たち自身にしか向けられないのである。これでは、やりきれない。

しかし、道を見誤ってはならない。

国家の首班が辞任しようが、新たな政権が生まれようが、それだけでは問題は解決しない。難しい同盟関係を持続可能なものにするべく、米国側が海外基地政策を劇的に見直さないかぎり、この問題に解決の糸口は見出せないのである。日本政府はこうした認識のもと、「国民のための外交」へと回帰すべきである。



Originally written, translated, and super-translated by Etranger

2010/06/18

"Renewed Hope" - as contributed to The Diplomat


This is an unedited original draft version of the article contributed to the Tokyo Notes blog of The Diplomat. For the professionally edited version of the article. Click the title. For a complete super-translated Japanese version, click here.


At last, he has spoken.

Several days after the inauguration of his successor, and a day before the closing of the regular session of the National Diet, former Prime Minister Hatoyama has finally spoken. Not on television, not in a magazine or newspaper article, but on the Twitter. Who was he tweeting to? To the nation, and to his "followers," followers in the sense of a follower of a leader, and not in the sense of the conventional Twitter lingo.

So what did he utter, after a short but complete silence? This (in Japanese only; tentative translation follows).


"Now the 'new public’ appears to have a life of its own. I thank all those who allowed me do the 'naked dance.' I also would like to thank all those who followed after my 'naked dance'. This amazing power of propagation would definitely change our world."

Naked dance, or hadaka odori in Japanese means that you make a fool out of yourself in public. So what did he mean here?

Many of his followers--in a conventional Twitter lingo--were puzzled, and many posed questions to him asking what he meant by "naked dance". Speculations were abound.

A day after his last tweet, Hatoyama tweets again; this time, with a link to a YouTube video, and a short message, saying this (in Japanese only; tentative translation follows):

"This video http://www.youtube.com/watch?v=qdwO1l5nKyg is the answer to the mystery of the 'naked dance'. It's the notion of the 'new public' where not only the public but the entire nation takes responsibility in leading public affairs. Within this mindset, I'd like to continue dancing like the young fellow in this video."

Action speaks louder than words.






(featured with Japanese subtitles)

This time, the video spoke louder, with much clarity on what he meant, and what he's been endeavoring to convey, than ever.

Hatoyama's tightly hidden intention throughout his record short eight-month term was revealed in this short video, presented by Derek Sivers, the young and successful entrepreneur who literally changed the scope of digital music industry.

Actually, several intellectuals speculated on Twitter that Hatoyama was only playing as a fool. Some were even determined that he must have a hidden agenda behind his seemingly convincing act of 'loopyness.'

As Sivers says in this TED video,

"The first follower is what transforms a 'lone nut' into a leader".

Many, including myself, thought this was just wishful thinking and that he would simply succumb to internal as well was external pressure to accept the original agreement on Futenma. And he did. But not without cause.

On Wednesday, Mainichi Shinbun’s series article entitled "The Reporter's Eye - Kisha No Me" (Japanese only) reported in detail what was being spoken among the two departing leaders, Secretary General Ozawa and Prime Minister Hatoyama, in the last breath of their administration.

According to the article, on the day when the new head of the government was being selected, Ozawa tapped on the shoulder of Rep. Hiroshi Kawauchi at the Lower House chamber (see my previous article for his role in the DPJ) and whispered into him the following words.


"So you've been to the Saipan Island. I'd like to sit down with you and hear more about it."

The report continued to pick on what Hatoyama said to Kawauchi as he came back to his seat. In response to Kawauchi's polite remark commending Hatoyama's work, the departing Prime Minister said the following, with a hint of sorrow.


"I think the answer is Tinian after all."

As he recalls these words, Kawauchi sensed they conveyed the regrettable feeling of Hatoyama, expressing his sorrow for not being able to realize the departure from the traditional U.S.-dependent security posture.

With these words, our hopes were renewed, regenerated, and strengthened. And a single tweet of a departing head of the government, reaffirmed our conviction.

This is the moment when the United States should rightly take an alarmist position; that the intent of the new administration is indeed to 'follow through' with the original agreement, which would inevitably bring forth a national-level resentment that Hatoyama has instilled with his 'naked dancing'.

No longer is international security a matter that would compromise the interest of the nation as a whole. Now, the interest of our people in Okinawa has become the interest of the entire nation. Their demand is simple and clear: respect of sovereign rights, or no deal.

In practice this would mean if the U.S. cannot 'follow through' with their May 28 commitment, then no deal.

In other words, the Marines in Futenma Air Station would be forced to transfer off the island of Okinawa, and off the sovereign territory of Japan, if the U.S. government do not commit to improving the safety standards as well as due regard to the local environment. This means, possible amendment to the Status of Force Agreement or SOFA.

So the story goes on, and the hope lives on.
In the end, hope prevailed, and not despair.



Originally written, and Japanese portion translated by Etranger
 

2010/06/03

"Shattered Hope" - as contributed to The Diplomat

This is an unedited original draft version of the article contributed to the Tokyo Notes blog of The Diplomat. For the professionally edited version of the article. Click the title. For a complete super-translated Japanese version, click here.


The sudden and yet expected resignation of Prime Minister Hatoyama on Wednesday was a shock to the entire Japanese nation. Both supporters and the oppositions of the ailing Prime Minister were took by a great surprise. It shocked, most of all, the people of Okinawa and those who remained hopeful on the few days before the Judgment Day.

For them, the Judgment Day was not the day when Hatoyama made his announcement for resignation but the day when a new agreement was signed into by the U.S.-Japan Security Consultative Committee (SCC) on May 28th, 2010.

For many who remained hopeful on the last days before the signing and announcement of the new agreement, it only brought despair and disappointment, in particular, for the people of Nago City(Okinawa) and Tokunoshima(Kagoshima). The two locations were specified in the agreement to be the most potential candidates for the relocation of the U.S. Marine Corps' Futenma Air Station (MCAS) facility and its training functions.

"Both sides confirmed the intention to locate the replacement facility at the Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters, with the runway portion(s) of the facility to be 1,800 meters long, inclusive of overruns, exclusive of seawalls."

"The two sides committed to expand the relocation of the U.S. forces activities, to include both bilateral and unilateral training, outside of Okinawa. In this regard, utilization of Tokunoshima will be considered, subject to development of appropriate facilities.
"

Both prefectures repeatedly rejected the request from the government and remained adamant. The agreement was a testament to these people that their government weighed the bilateral relationship over their demand, and hope.

Then came the resignation of the national leader. Their last hope was shattered.

For those who remained hopeful, the resignation was the acknowledgment from their leader that he cannot fight for the people suffering from the U.S. military presence in Japan. For them it was cowardice of the weak and indecisive Prime Minister to abandon his responsibilities to protect the interests and livelihood of the people he governs over the interest of national security and bilateral alliance.

In the end, national security prevailed. The preamble of the SCC agreement highlighted the renewed recognition in  both governments that "the U.S.-Japan Alliance remains indispensable not only to the defense of Japan, but also to the peace, security, and prosperity of the Asia-Pacific region," owing to"(r)ecent developments in the security environment of Northeast Asia".

"... the U.S.-Japan Alliance remains indispensable not only to the defense of Japan, but also to the peace, security, and prosperity of the Asia-Pacific region. Recent developments in the security environment of Northeast Asia reaffirmed the significance of the Alliance. "

The suspected North Korean submarine attack changed the entire game. A single alleged torpedo destroyed not only the security equilibrium of the region but the hopes of the many.

And the game continues.

According to Kyodo, Capitol Hill rejected the relocation bill on the U.S. Marines in Okinawa, as-is, and demanded a major cut on the budget, just a day before the announcement of Prime Minister’s resignation.

According to an internal document obtained by Kyodo, the U.S. Senate Armed Services Committee reduced the outlay of the budget by 70 percent of the government-proposed level, citing the Okinawa Prefecture governor's refusal to approve land reclamation plan for the proposed area in "Camp Schwab Henoko-saki area and adjacent waters" (as specified in the SCC agreement) as its reasons.

Many of the disgruntled hopefuls see this development as outright pressure against the Japanese negotiators that seek to finalize and follow through with the new SCC agreement.

Another recent development also strengthens this conviction.

Also according to another article by Kyodo, both the U.S. and Japanese governments are considering to postpone the transfer of some 8,552 marines and its 9,000 dependents from Okinawa to Guam "by three to five years from the originally scheduled 2014." This would of course alter the agreed time-line.

As the article reiterates, both governments have agreed that the relocation of the marines and its dependents are "dependent on tangible progress" on relocating the MCAS to another site in Okinawa. As the article points out, the delay could seriously affect the outcome of the replacement facility.

This would be another blow to those who are hopeful. The fact that these deals are not a one-sided matter but our government is also playing an integral part of it will further their conviction that they are being played around by both sides.

Synonymous to what we call in Japan as “kokumin fuzai no seiji” (politics without due consideration of the people), “kokumin fuzai no gaikou” (diplomacy without due consideration of the people) has completely shattered the hopes of many, with no one to blame but themselves for allowing the current administration into power. But resignation of its leader will not resolve this, nor would the change of the government, unless a dramatic change in U.S. overseas base policy is conceived to address the difficult task of managing a sustainable alliance.


Written by Etranger

2010/05/31

Comment posted on CFR blog entry "Prime Minister Hatoyama’s Pursuit of Equity" by Dr. Sheila Smith

It is not clear whether this comment would be approved. It was posted over 24hrs ago but it has not appeared yet on the CFR blog. Regardless of whether my comment is approved or not, I will post a copy here for the record. For Dr. Smith's original article, click the title.

Dr. Smith. I have always respected your work and your sincere attitude and respectful work you have done on the U.S. base issue in Japan and Okinawa people in general. Having said that, I do have to point our your mistake in stating this, "tiny island prefecture that currently hosts 75% – yes, 75% – of the 45,000 or so U.S. military personnel in Japan."

As an expert of your caliber and prominence, you must know well that the number "75%" refers to the land area occupied by the U.S. bases in Okinawa and NOT the number of forces.

Also, in general, in Japan we only count the number of forces (footprint) and not including the dependents as the occupying forces (not meaning in the Cold War sense of "occupation", of course).

I've also noticed that Western media in general counts the force footprint in Japan as you do. But the numbers we obtain from the DoD suggests that the force footprint is less than 40,000 and that's the number our general public is aware of (to be precise, 35,965 according to DoD's Directorate for Information Operations and Reports)

I would suggest that you correct these information, or at least clarify so that a wrong message--that Western experts are not aware of the facts and figures--will NOT be propagated.


Written by Etranger

2010/05/27

超訳:望みを託す人々("Still Hopeful for the Future of the Nation")

本稿は、昨日、米誌The Diplomat公式ブログの『Tokyo Notes』に寄稿し掲載された"Still Hopeful"という筆者執筆の記事と、その元になった原案を融合し、さらにこれまでツイッター上で行われた様々な議論を総合して行った、いわば“自己超訳”的な試みです。The Diplomat寄稿の原文についてはタイトルをクリックしてください。元になった原案はコチラをクリック

 


あとわずか1日で、MCAS(米海兵隊普天間飛行場)の「危険な」飛行機能の移転問題について、米国との間で締結される新たな合意内容が発表される。この新たな合意は、約8500名の海兵隊員と9000名の扶養家族らをグアムに移転するという2006年の再編ロードマップ合意に基づいたグアム移転協定(2009年締結)にも、当然影響を及ぼすと思われる。

一部の報道や、23日に行われた鳩山総理の二回目の沖縄訪問の内容(公式動画)が指し示すのは、新たな移転先の候補地が「名護市辺野古周辺」である可能性だ。しかし、オバマ政権下で強い影響力を持つCFR(外交問題評議会)のシーラ・スミス上級研究員によれば、同地に基地を建設してほしいという「圧倒的な支持」は存在しない。


「鳩山政権が米政府とMCASの閉鎖を含めた政策オプションを探るための新たな交渉段階に入っている」という事実を明らかにした、スミス女史の『(仮題)普天間問題についての現実的考察』(参考:はたともこ氏による和訳)と題されたCFR公式ブログの記事(原典)は、最後の望みを捨てずにいる人々に勇気と希望を与えた。そのフォローアップとして行われたのテレビ朝日『報道ステーション』のインタビューの中で、スミス女史は前述のように答えたのだ。



鳩山政権を支持する日本の人々は、誕生間もない民主党政権が米国政府と粘り強く交渉を続け、なんらかの形で、沖縄県民だけでなく、すべての日本国民の名誉と尊厳を取り戻してくれるような、そういう交渉を展開してくれているのではないかと、一縷の希望を抱きつづけている。その望みは、日米両政府が、将来的な米海兵隊兵力の全面撤退を見据えて交渉を行っている可能性に託されている。


そうした一縷の希望に望みを託す人々に、「沖縄の政治的力学に大きな変化が生じている」と、沖縄の現状に深い理解を示す前出のスミス女史の発言は、ますます強い希望を与えているのである。


「もはや沖縄は、日米関係のすべての負担を背負うことを要請される立場にない。日本の首相は、米軍の運用を県外に移さざるを得ないだろう」

スミス女史はこの発言の中で、米側に対して米軍運用の県外への移行を検討するよう求めているわけではなく、あくまで日本側にその検討を求めている。このことは留意しなければならない。しかし、このような発言が、オバマ政権下で大きな影響力を持つ政策ブレインから発せられるからこそ、人々はその言葉に望みを得るのである。しかも、この望みにはまったく可能性がないわけではない。


希望の源:テニアン移設受け入れの動き

鳩山政権内の民主党と連立与党の有志の集まりが、この可能性を国民的運動に広げるべく、積極的に活動している。超党派でつくる「沖縄等米軍基地問題議員懇談会」の会長である川内博史衆議院議員(民主党)が率いる議員の一団は本年5月、在沖海兵隊兵力の移転受け入れを打診すべく、米領北マリアナ諸島連邦(CNMI)のテニアン諸島と同グアムを訪れた。議員団を迎えた両島の知事らは、快くこれを受け入れたという。そして、実現はしなかったものの、自ら鳩山総理に会見を申し入れる行動にすら出たという(地元での報道)。

米領の知事らが議員団の要請を受け入れたのには、具体的な目的があった。それは、米軍再編による米戦力受け入れに伴う諸処の開発資金について、非軍事分野での資金アクセスを米国政府に制限されているため、両島における開発資金について、日本側が供与予定の約6100億円(移転費用全体の約69%といわれる)へのアクセスへの便宜をはかってほしいという思惑があったからだ(地元での報道)。海兵隊戦力の移転受け入れは可能であるとする米領グアムのフェリックス・カマーチョ知事の強い意思は、鳩山総理に宛てられた親書原典)の内容からも窺える。この親書は即日で、グアム知事公室の公式サイトにて公表された。


またCNMIの連邦議会では4月、上下両院において「米国防省と日本政府に対し、日本国沖縄県宜野湾市の米海兵隊普天間飛行場の“最適な移転先”としてテニアンを検討するよう求める決議」が全会一致で採択されていた(各院での決議採択に関する現地報道:下院上院

こうした動きについて懐疑的な論者は、グアム・テニアンのいずれも、全ての在沖海兵隊員とその扶養家族を受け入れる能力を有していないとして、いまやすっかり有名になった、DEIS(海外環境影響準備書)とよばれる米軍の報告書(具体的には国防総省米海軍省所属のグアム統合計画部JGPOによる報告書)の“たたき台” をベースに反論を展開する。とくにテニアン諸島については、その収容能力や生活インフラの不備、そして本格的軍事利用には適していないが訓練地としては適しているとして、移設候補地から外されたと評価する、DEISの内容を引用して否定する。しかしこれに対する地元の反応は単純明瞭だ。

"NO, WE CAN"(いや、我々は受け入れることができる)

しかもこの「NO」(できる)は日米両軍事産業(ミリコン)のお墨付きでもあることが、この地元記事には示されている。2007年の段階で、サイパン商工会議所のフアン・ゲレーロ会頭が、米軍事産業大手のベクテルや日本の大手三菱重工業の調査団とともに現地を周り、同調査団は、グアムの軍拡張計画に伴う
CNMIでの受け入れは十分に可能であるという結論を出したのである。

補足資料:
米国家環境政策法(NEPA)におけるDEISの位置付け
米軍グアム統合計画に基づくマスタープラン策定過程におけるDEISの位置付けを示す防衛省資料(PDF, p.28を参照)


 

日米両政府は覚悟の選択を

このように、大平洋をまたがって、それぞれの島々に住む多くの人々が、最後の最後まで、同じ一縷の希望に望みを託している。それは、日米両政府が、沖縄に在日米軍の大半を常時駐留あるいは半永久的に駐留させるということがいかに非現実的な政策オプションであるかを悟り、大いなる合意に達するであろうという希望だ。

前出のCFRのスミス女史が同氏の「現実的考察」ブログで指摘したように、日米両同盟国政府は、それぞれ現実を見つめ直す時を迎えている。それは、問題の本質が変わっていることを認めることである。それは、とりもなおさず、米側が、日本側が提示する代替案がいかに有効であるかではなく、信頼する同盟国の国内事情を勘案しなければならないという現実に適応することを意味する一方で、日本側が、「米軍の作戦を県外に移行する」ことを真剣に検討することを意味する。

スミス女史曰く
「日米両政府は、幾つかの極めて難しい判断を行う必要に迫られていることを認識しなければらない」のである。

そして日本政府には、谷岡郁子参議院議員(民主党)最近ワシントンで述べたこと当ブログ記事参照)をそっくり米側に返すくらいの覚悟が必要である。

「まるで“自分たちの問題なのだから自分たちで解決しろ”と言っているにも等しいのではないか」

すなわち、今度は米側が日本の現実を見つめ、この問題に、“自分たちの問題”として真摯に取り組むことを求めるべきなのである。

時代は変わった。

日米両同盟国が、沖縄の新しい政治力学を認め、同盟関係を良好に維持する施策として、この問題をそれぞれの問題として相互に責任転嫁するのではなく、“我々の問題”という新たな認識のもとで真摯に取り組むべき時がきた。

日本国内には、まだ両国の協議の行く末に固唾を呑みつつ、望みを捨てないでいる人々が多くいる。間もなく発表される協議の結果は、沖縄の人々だけでなく、すべての日本国民の主権に関わることだからだ。

沖縄の人々も、そう感じている。

(了)

■お願い■


本稿について、本稿の主張に共感される方から、本稿の主張を強化するのに役立つ資料の提供を広く求めます。YouTube動画、声明、ツダり記録、Togetterまとめ、海外報道など、なんでもお知らせ下さい。随時、本稿に資料リンクとして追加してゆきます。

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2010年5月27日 

政府英断の日を前に、「望みを託す人々」の一人として



Originally written, translated, and super-translated by Etranger

2010/05/26

"Still Hopeful for the Future of the Nation" - as contributed to The Diplomat

This is an unedited original draft version of the article contributed to the Tokyo Notes blog of The Diplomat. For the professionally edited version of the article. Click the title. For a complete super-translated Japanese version, click here.

In just a couple of days, the Hatoyama Administration will officially announce the content of its agreement with the United States government: a new agreement on the relocation of the “dangerous” aerial operations from the increasingly controversial U.S. Marine Corps Futenma Air Station site, which could also affect the U.S. plans to relocate 8,500 additional Marines and 9,000 dependents off to the Guam according to the existing agreement signed in 2006.

Media reports as well as the second visit to Okinawa by Prime Minister Hatoyama last Sunday indicate that the potential new location of the U.S. Marines would be in the "vicinity" of Henoko area of Nago City, where "there is not an overwhelming support" to accept the construction of a new base, according to Dr. Sheila. A. Smith, Senior Fellow at the Council of Foreign Relations.

In the follow-up interview to Dr. Smith’s official blog entry at the CFR website that captured the eyes of many 'hopeful' Japanese, TV Asahi's news show Hodo Station re-captured the 'hope' that was instilled by her blog entry; a hope that Prime Minister Hatoyama and his counterpart in Washington is seeking to reach a compromise, which in Smith's words would "allow U.S. Marine Corps Air Station Futenma to be shut down."




People in Japan who supports the Hatoyama Administration are still hopeful that the relatively young DPJ administration will somehow re-negotiate with the U.S. government a deal that will redeem the sense of national pride, as well as local pride of the Okinawans. Their hopes reside in the possibility that the government may be negotiating with the Obama Administration on a future plan to relocate the entire Marine forces out of the national territory of Japan.

Accompanied by the deep recognition of clear changes in the “political dynamic of Okinawa,” Dr. Smith's recent interview, as well as these words on her blog, reaffirms this sense of hope.

"Okinawa should not be asked to bear the full burden of the U.S.-Japan alliance, and Japan’s Prime Minister will need to move operations of U.S. forces off-island."

Although Dr. Smith is clearly not asking the American side but the Japan side to consider the need to move the operations off the island of Okinawa, such a remark coming from one of the prominent policymaking brains of the Obama Administration brings strong hope to the Japanese people. And this hope is not without a cause.

A few DPJ members and the coalition partners in the government have been active in bringing this cause into national focus. Led by DPJ Representative Hiroshi Kawauchi, a group of multi-party policymakers recently made a trip to the U.S. territory of Marianas as well as Guam to seek possible acceptance of the relocation of U.S. Marines in Okinawa to their territories.

The governors of CNMI (Commonwealth of Northern Mariana Islands) and Guam, reportedly accepted the offer and even embarked on their own attempt to meet Prime Minister Hatoyama in person, though it ended unsuccessful. The governors had their reasons to support the Japanese policymaker's initiative, especially in order to bring Japan to its aid in taking a hold of the funds in which their access is forbidden by the U.S. federal government. The strong conviction of Guam's Governor Felix P. Camacho was indicated in his letter to Prime Minister (PDF) which was immediately made available on the web.

Last month, the both houses of the CNMI legislature also showed its support by unanimously adopting a resolution which "encourages the U.S. Department of Defense and Japanese officials to consider Tinian as the “best location” to relocate the U.S. Marine Corps Air Station at Futenma in Ginowan in the Okinawa Prefecture of Japan." (House, Senate)

Critics to these initiatives argue that neither Guam nor the Tinian islands have the capacity to accept in entirety the infusion of over 8,000 U.S. Marines and its 9,000 dependants, and cite the now famous draft military report or DEIS (Draft Environmental Impact Statement) that points out the fact that the Tinian islands in particular has been taken off the list of possible relocation sites, precisely due to its capacity, poor infrastructure, and inadequacy for a full-fledged military use except for training purposes. However, local reaction to this is,  "NO, WE CAN."

Many people of the islands in both sides of the Pacific, in Japan and in the Marianas, still hold onto the hope until the very last day that the U.S. and Japanese government will eventually come to an agreement that hosting the vast majority of U.S. forces in Okinawa on a permanent or even semi-permanent basis, is no longer a realistic policy option.

As CFR's Dr. Smith has pointed out in her "reality check" article, the two alliance partners must come to terms with the new reality, that the focus of the issue has changed. That the issue is not how feasible Japan's alternatives are to the U.S. demands, but to adapt to the changed reality of a respected alliance partner.

"It is time to recognize the need for Tokyo and Washington to make some very hard choices."

And as Sen. Kunioka Tanioka (DPJ) remarked on her recent visit to Washington , it is now Washington's turn to come to terms with the reality, and tackle the problem as ‘their’ problem.

"It seems to us Japanese that Obama is saying ‘You do it, you solve, it's your problem,'"

It 's now time for both sides of the alliance to acquiesce and acknowledge that it is ‘our’ problem; that to sustain the alliance, they both need to come to terms with the new political reality. The Japanese people still holds high hope in the culmination of the talks, not only for the Okinawans, but for the future of the sovereign nation of Japan as well.


Written by Etranger